「いいかげん」のすすめ

「いいかげん」のすすめ

「いいかげん」のすすめ

4章構成で、仏教の言葉を伝えています。

  1. 「あきらめ」のすすめ
  2. 希望を持つな
  3. 「いいかげん」のすすめ
  4. ご縁を大切に

「あきらめ」は「明らかにすること」という仏教の言葉で、「いいかげん」は「良い加減」という意味で使っています。人生を楽しく生きて行こうという意欲がわいてくる本でした。


腑に落ちた内容があって、「有漏・無漏」という題で書かれていました。大乗仏教では「有漏の善」はよくないそうです。ちょっと長いけど引用します。

 「有漏の善」とは何か。端的に言えば、それは「小さな親切」である。小さな親切は、仏教ではあまりよくないことである。
 たとえば、明治時代の禾山禅師は、托鉢の途中で、坂道で立ち往生している荷車のうしろを押して加勢をした弟子を破門してしまった。この弟子の行為は親切にはちがいないが、仏教がいちばん嫌う「有漏の善」だからである。
 なるほど、この弟子の行為はいいことである。だが、いいことをしたこの弟子は、きっとこう考えるだろう。
 「自分はいいことをした。自分はいい人間である」
 このような満足感を持つと、人間は知らず知らずのうちに傲慢になる。そして、いっこうにいいことをしない他人を非難しはじめる。あるいはまた、自分はいい人間だとおもっているから、自分が意識しないで多くの他人のこころを傷つけていることに気付こうとしないのだ。「有漏の善」とは、そのような小善である。中途半端な善だ。
 わたしたちがすべきであるのは、無漏の善、すなわち「こだわりのない善」である。

私は、小さな親切は、それを自覚してやってはいけないと思うのです。自覚というのは、「いま俺、いいことしている」とか、「きっと、ありがとうと言ってもらえる」とか思う事です。そういう自覚があると、上記に引用したように傲慢になっていくと思うのです。逆に、自然に体がかってに親切な行動をしていて、別にそれを気にする事もなく、少し時間が過ぎたら、そういう親切な行いをしたという事を忘れているような、そういう親切は良いと思うのです。
私は基本的に小さな親切はしない人ですが、町を歩いていると小さな親切をしようとする人を見かけます。つまずいて転んでしまった人に声をかけたり、道に迷っているような感じの人に声を掛けたり。そういう親切の申し出が断られたときに、「わかりました」という感じでにこやかに離れる人は、自然に体がかってに動いた人なのかなと思います。逆に、「俺の親切を無視しやがって」とか「私の親切を受け入れてもらえないのは悲しい」という感じで不満顔で離れる人も見かけますね。


ちなみに、私は大きな親切はやる時はやる人だと思っています。やるからには覚悟をもってやります。そこには、「いいことしている」とか「ありがとうと言ってもらえる」などという思いは一切ありません。純粋に手助けしてあげたいから、手助けするだけです。なぜ手助けしたいのかと言えば、その人に良い人生を歩んでほしいと思うからです。そう思うような人だからこそ、覚悟をもって手助けするのです。そう思えないような人はどんなに困っていても無視します。私の力は有限です。
手助けした結果、感謝されるかもしれないし、余計な事をと言われるかもしれませんし、無視されるかもしれません。でも、それはどうでも良いのです。真剣に助けたいと思う人を助けられれば、それで十分なのです。でも、そこまで思える人というのは、普段からそう思ってもらえるような立ち振る舞いをしているということで、そういう人は「ありがとう」と言ってくれるものです。


ここまで書いて気がついたのですが、その親切が有漏か無漏のどちらであるかは、その親切を第三者に言ったか言わなかったかで判断できるのかもしれません。私は小さな親切はしないし、大きな親切は関係者以外には言わないようにしています。たまに言って自慢したいという誘惑に駆られますが、それはプライバシーの侵害になる場合が多く、結果として無関係な人には言えないですね。